逆引き武士語『是非もない』☜「どうにもならない」


『ぜひもない』

「ぜひ」(是非)とは、物事の善いこと悪いことのこと。
「是」は、「善し」「正しい」。
「非」は、「あらざる」「あやまり」「不正」。
是非いかにも弁へ(わきまえ)がたし」(平家物語)というように、物事の善悪、道理のありなしを判断することの意でも用いられる。
副詞扱いで、「是非ともよろしく」というように、どうしても、きっと、必ず、など強調語としての「是非」は、現代でも使われる。

☞この「是非」、孟子によれば、人の心の中に本来的に備わっている「四端」の一つとされる。
惻隠、羞悪、辞譲、そして是非
それぞれ仁、義、礼、智という完全な徳に育てなければならないと説く。(公孫丑上篇)
是非は、智につながる。

「ぜひもない」(是非もない)
「是非」「ない」を強い否定の助詞「も」でつないだ。
善も悪もそれどころでないと強力に打ち消している。
善悪の区別がつかない、善いも悪いもいってられない、つまり、「仕方がない」「やむをえない」「どうにもならない」。
諦念、悟りの境地を表すことばといえようか。

「ぜひなし」(是非なし)も、「どうにもならない」の意だが、「遠慮がない」「強引だ」の意味でも用いられる。
否応無しであることが、当然なことに結びついたのだろう。
「浪人売れがたき世なれば いづれも是非なく里の月日をかさねぬ」
(井原西鶴/日本永代蔵)やむをえないの意味に用いている。

「ぜひにおよばぬ」(是非に及ばぬ)
「及ぶ」は、ある状態に届く、達する。匹敵するの意。
「及ばない」で、不必要、しなくてもいい。
「是非に及ばぬ」を読みくだくと「善とする、非ざることとする、そこまでする必要はない」となる。
「どうしようもない」「やむをえない」「そうするしかない」の意味に。
「ぜひにかなわず」(是非に叶わず)という言い方もする。
「御法度とあれば是非に叶わず

☞「どうしようもない」で、
いかにも武士語っぽい言い回しなのが「やんぬるか」(已矣哉)だ。
「終った」意味の「やみぬる」(止みぬる)が音変化したもの。
「今となってはどうしようもない」「もう終わりだ」という慨嘆、絶望の辞。
「弓折れ矢尽きた。やんぬるかな

[一筆余談啓上]

「これは謀叛か、如何なる者の企てぞ」
「明智が者と見え申し候と、言上候へば、是非に及ばずと上意候」
(信長公記)
本能寺で、討っ手が、あろうことか家臣の明智光秀と聞かされたときに
織田信長は何と発しただろう。
信長公記の記述通り「ぜひに及ばぬ」と言い放ったか
あるいは
「ぜひもなし」と天を仰いだか
「英雄たちの選択」風に信長の心の中に分け入ってみよう。

万事休す、「あの光秀のことだぬかりなかろうどうしようもない」

と観念したとしたら「ぜひもなし」と、光秀謀叛の奏上をした森蘭丸に洩らしただろう。
信長は、万に一つ謀叛を起こせるのは、光秀の軍勢しかありえないことを承知していたというから、「諦める」もあり、と否定はしきれない。

だが、信長の性格を考えると「ぜひに及ばぬ」だ。
「であるか、返り討ちにしてやる」と思ったに違いない。
「四の五のとやかく言っている場合ではない」
「ぜひに及ばぬ」と意を決し「すぐさま防戦せよ」と命じただろう。
“黒人奴隷の弥助を信忠のもとに援軍を求める伝令として送り出していた”という史実が、信長自身、逃げようと思えば逃げられる隙があったことを裏付ける。
「良し悪しなどを判断する必要はない」「考える遑があれば動け」だ。
信長は、「諦めてはいない」、脳裏に浮かんだのは
「ぜひに及ばぬ」と迎え撃つことだった。

信長における倫理観念は心映えと行動において
「きたなし」ということを憎んだ。
欲深を極端にきらった。
個人の行動や進退もしくは生死において、
きれいであることをほとんど唯一無二の倫理感覚としていた。
武運尽きたか「承知」と、
「死のうは一定悟りおこすのよ」

「人間五十年下天のうちをくらぶれば 夢まぼろしのごとくなり」
幸若を舞いながら、美しく炎に包まれた、と思いたい。

 

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