逆引き武士語『げせぬ』☜「分からない」


☞『げせぬ』

大川端に流れ着いた男女の土左衛門。冥途への道行き離れまいと、
手首と手首を結んだ帯締め紐に、目をおとした、銭形平次。
そこでひと言「こいつぁ、げせねぇ」。
平次親分の頭をかすめた疑いがもつれた糸をするりとほぐしていく。
「げせぬ」(解せぬ」は、物事の展開や相手の気持ちが理解できないときに発する。
「分からない」 「理解に苦しむ」「納得いかない」などの意味で使われる。
評価や結末が納得できないときにも「解せぬ」と言い放つ。

☞理解する、納得する意味の「げせる」(解せる)の打ち消し。
「そのように事をげさねえぢゃあ、唐人と話をするやうだ」
(式亭三馬/浮世床)

「げす」(解す)も、「分かる」「理解する」の意だが、「とける、なくす、除く」の意味もあり、こちらの方で、今日に残る。解熱、解毒などの「げ」だ。

「解せない」と並んで、武士語で、分からないといえば
「ふにおちない」(腑に落ちない)だ。
腑に落ちないの「」は、「はらわた」「臓腑」のことだが、分別、考えの意味もある。
腑に心が宿るとされたところから、そのような意味ももつようになったのだろう。
「解せない」より、簡単に解決しそうな問題に対してもらすことばのようだ。
「解せない」「解」は、もつれた糸をほどいて、もとにもどすという意があるように、それができない「解きほぐせない」ほど複雑で厄介。
解いた後にも対処しなければならないことがある、という予感まで含む。
それに引き換え「腑に落ちない」は、心がうなずいていない状態で、
訳さえ分かれば、すんなり「腑に落ちて」納得できるというようなニュアンスだ。

☞意気地がない、腰抜け、のことを「ふぬけ」(腑抜け)という。
はらわた=心が、ぬきとられたかのような、ということだ。
「ふの抜けたる仁に海老を振る舞ひけるが」(醒睡笑)

「釈然としない」という言い方がある。この意味を辞書で引いたら「腑に落ちない」とあった。同じ意味となると釈然としない。
面白いのは、「釈然」の由来で「釈迦が然るべしと言った」とあった。
武士が「釈然としない」とは、口にしそうもないので、その真偽の詮索は棚にあげる。
ただ、「釈」の字解は、次々とつらなっているものを分けて解き放つこと。解く意となる。転じて、解き明かす意ともなる。
「解せない」「解」に通じるところがあって興味深い。

☞因に、現代語「分かる」の古語は、理解する、判別する意味の「わく」だと思う。
「ちはやぶる神世には歌の文字も定まらず、すなほにして事の心わきがたかりけらし」(古今和歌集・序)
「わからぬ」、「わきがたき」などの言い回しで
今日にいう「分からない」の意味を表現してきたと思う。

[一筆余談啓上]

[わ]行まで辿り着いた。
[を]行と[ん]行が積み残されているが、
さすがに、広辞苑にしても、単頁しかなく、
なおたっぷり余白あり、というほどで、
その中に自立したことばといえるものは、見当たら無い。
ということで、これにて御免となる。

ん、まてよ、「ん」にあたる武士語あるかも。
了承、了解、承諾を表す「ん」の逆引き武士語は
「むっ」とか「むむ」になりそうだ。
武士が思案するときに発するだろう。
ただ、武士は、目下の者からのあいさつを受けたり、結果の報告を聞いたりしたときは、無言で首肯くだけだった。
否とも応とも、それこそ「むっ」ともなく。
この無言、さまざまな意味を含ませることのできることば以上のことばだともいえる。
目下の者に、忖度を促しもする。

「何事のおはしますかはしらねども 辱さに涙こぼるる」
「何の木の花とはしらず匂哉」
どちらも、伊勢神宮に参拝した折りに、詠じられた歌と句だ。
どちらも、武士身分を捨て、前者は僧に、後者は俳人になった。
穢れをおそれる、清浄を好む。
怖れを伴った美意識というものが武士には、より強烈にあった。
それは、日本人の意識の底にありつづけ、今もずっしりと占めているに違いない。
かっこよさという意識が、変わらぬ受容上の体質になっているようにも思う。
一方で、日本の伝統意識として美意識というものは、時節時節で変わる。
鮮度が美意識につながっている。
そして、いま、武士語は、鮮度を帯びた。
何をいいたいかって、さよう、武士語は、かっこいいので御座候。

 

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