『ぬれぎぬ』
「ぬれぎぬ」(濡れ衣)は、「根も葉ものないうわさ」「無実の浮き名」「身に覚えのない罪」。
「ぬれぎぬをのみきること、いまははらへ捨ててむと」(和泉式部集)
☞「ぬれぎぬ」は、文字通り雨水や海水などに濡れた衣服のことでしかなかったが、平安時代になって、
「無実の罪」、
「名にしおはばあだにぞあるべきたはれ島波のぬれぎぬ着るといふなり」
(伊勢物語)
「根拠のないうわさ」、
「憎からぬ人ゆえは、ぬれぎぬをだに着まほしがる類もあなればにや」
(源氏物語/紅葉賀)
などの意味に、用いられるようになった。
☞どのような経緯から「濡れ衣」が「無実の罪」の意になったのか、
この語源には諸説ありで、喧しい。
だが、どれも帯に長し、襷に短しで、衣を着られない。
中で、女の嫉妬が生んだという語源説は、残酷で、背筋にぞぞっとくる。
本当にありそうだから、一層こわい。
“継母が先妻の娘の美しさを妬み、漁師の濡れた衣服を娘の寝所においたため、不貞をはたらいていると誤解した父が、娘を手討ちにしてしまった”
ここから、無実の罪を「濡れ衣」というようになったという。
☞奈良朝時代、有罪、無罪を濡れた衣服の乾き方で決めたという神事裁判があった。早く乾いた方が無罪になる。
その神事に由来するという。それで「濡れ衣」が、無実の罪の意になったのだとすると、早く乾いた方が実は有罪だった、ということになり、神の意志とは異なるように思うのだけれどいかがなものか。
☞もっとありえないと思わせる語源説が、これだ。
無実は「実が無い」と書くことから、「みのない」が「蓑ない」に転じて、雨具として使われる「蓑が無いと衣が濡れる」
ということから「無実」を「濡れ衣」とよぶようになった。
というもの。
ことば遊びとしては、絶妙なのだが。
☞悪意の加害者は「濡れ衣を着せる」
善意の被害者は「濡れ衣を着せられる」被せられるとは言わない。
☞そもそも「濡れ」という古語は、恋愛とか情事を意味した。
「濡れ事」は、色事。
ドラマで情事の場面を「濡れ場」というのは、この「濡れ事」からきている。
「濡れ掛け」は、色仕掛け。そのあたりが、根も葉もないうわさや浮き名を「濡れ衣」というようになったこととかかわりがあるのではないだろうか。
☞濡れ衣を人ではなく、春雨に着せた古歌がある。
「かきくらしことはふらなん春雨にぬれぎぬきせて君をとどめん」
(古今和歌集)
“空がかきくもるほど大降りになってほしい、そうすれば、
この春雨のせいにしてあなたを帰さない”
いじらしい濡れ衣もあったのだ。
[一筆余談啓上]
「濡れ衣」の「蓑ない」語源説から思い起こされるのは、蓑が雨具だったということで生まれた太田道灌の山吹の里伝説だ。
若き日の道灌が、鷹狩りでにわか雨にあい、
雨具を借りようとしたところ、出てきた少女は、山吹の一枝を差し出した。道灌意味が分からず、立腹して、立ち去った。
後に、それは古歌に寄せて、少女が蓑ひとつないことをわびたのだと、聞かされた。
「七重八重 花は咲けども 山吹の みのひとつだに なきぞかなしき」
太田道灌は、古河公方の南進に対して、扇谷上杉家を守るため江戸城を築城したことでも知られる。
かって有楽町に都庁舎があった。
その正面に弓を手にした鷹狩り姿の銅像が見仰ぐように立っていた。
現在は、跡地にできた東京国際フォーラム内に移されて、ガラス張りのケースに鎮座されている。
「みのひとつだになきぞ」は
「実の」と「蓑」の掛け言葉
ダブルミーニングだとわかっても
“山吹は花だけ咲いて、実がならない”ことを知らないと、
もうひとつピンとこないだろう。
山吹は、中国原産で、雌株には実がなるけれど、花を咲かせる雄株だけが、日本に入って来たのだそうだ。
日本の野に咲く山吹は、無実だ。
「道灌」という落語がある。
物知りのご隠居さんに、「みのひとつだになきぞかなしき」の歌を書いてもらった大家、店子が傘を借りにきたら、
太田道灌の故事をまねて断ろうと、てぐすねひいていた。
「借り物をしたい」と店子が来た。
「傘だろう」「いや、提灯を貸してくれ」というと
「提灯も貸すから、傘を貸せといえ」と大家さんがいうので、
店子は、しぶしぶ「傘を貸してくれ」と。
待ってましたとばかりに大家、歌を読んできかせた。
店子は意味が分からずチンプンカンプン。その様子を見て大家
「おまえは歌道に暗いな」というと、店子すかさず
「角が暗いから提灯を借りにきた」
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