『まかりこす』
香具山と耳梨山があひし時 立ちて見にこし 印南国原」(万葉集)
「今こむと 言ひしばかりに長月の 有り明の月を待ち出でつるかな」(古今和歌集)
古語の「く」(来・自動詞カ行変格活用)という語は、「来る」と「行く」の意がある。
そもそも、「来る」も「行く」も、どの側から見るか、対象となる視点によって表現が異なるもので、主体の行為は同じ。
☞「まかりこす」(罷り越す)もまた、「来る」と「行く」と、両方の意を持つ。
「まかる」(罷る)は、「来る」「行く」の謙譲語であり、参る、参上するの意。
「こす」(越す)も「行く」「来る」を意味する。
現代も来るの敬語として用いられる「お越しになられる」の越だ。
「物の上を越える」というのが、第一義だから、何かを越えてゆくというイメージを背にしている。武士社会でのその越える何かとは、身分の隔てとか壁だ。
☞「少々うかがいたき儀あり罷り越した」というように使われる。
面識はないが、突然失礼しますというニュアンスで、迎える側からすると「唐突に来た」、訪ねる側からすると「いきなり行く」、唐突に、いきなり、隔てや壁を越えるということ、ととらえられる。
「仰せによりただいま罷り越しました」のような場合は、「来る」の謙譲表現に比重を感じる。
☞「罷り」は、謙譲表現で、もともとは、腰の低い物言いだったのが、後につく語をより強調したような表現となり、現代に通じている。
「許さない」という意味の「罷りならぬ」も、いけない、ダメだと、否定の表現「成らぬ」を強調した語になっている。
「まかり通る」「まかり間違っても」という言い回しも同類だ。
☞この世を去ることを「みまかる」(身罷る)というが、
この「罷る」は、「退く」「おいとまする」という
本来の義から来ていると思う。
☞武士が「来る」ということを口にするとしたら、その相手は、目上の人だろう。来訪を敬った「来る」の物言いはさまざまだ。
▶「こうらい」(光来)。
最大級の敬意のこもる“御”をつけて「御光来」となる。
「御光来を仰ぐ」というように使う。
“御”は高貴な人物であることをはっきりさせるための語。
相手の所作、動作を敬っていることを表す。
「今度御光来の節は久し振りにて 晩餐でも供し度心得に御座候」
(夏目漱石/吾輩は猫である)
▶「こうりん」(光臨)
▶「らいが」(来駕)
これらも“御”がつくのが慣用で、貴人来訪の尊敬語になる。
▶「おうが」(枉駕)
▶「じゅらい」(入来)
なども「来る」だ。
[一筆余談啓上]
以前いたオフィスから百メートルほどに、隅田川が横たわっていた。
「白き鳥の嘴と脚と赤き、しぎの大きさなる、水の上に遊びつつ」
伊勢物語の昔と変わらぬ風情が、川面に見られる。
光源氏のモデルとされる在原業平の一句がよぎる。
「名にしおはば いざ言問はむ都鳥 わがおもふひとは ありやなしやと」
この都鳥は、「ゆりかもめ」のことだという。
「ありやなしや」と安否を問う、無事に生きているのかどうか。
武士語に置き換えると「消息」になる。消は死、息は生を意味する。
河岸の手前に、佃大橋が架けられ、お役御免になった「佃の渡し」跡の碑が立っている。交差点脇だが、気付く人もいないほどひっそりと。
対岸の佃島。家康が江戸の魚のまずいことに閉口して、存じ寄りの漁師を連れてきたというのがそものはじめ。
家康の伊賀越え逃避行の際、手助けしてくれたその恩義に感じて、江戸に移封の折、摂津国佃村の漁民を呼び寄せ、
江戸湾で優先的に漁ができるよう特権を与えて保護した。
幕府は河口の三角州を埋め立てて、島を造り、そこに移り住まわせた。
赤い欄干の小橋、舟だまりが往時を偲ばせる。細い路地に木造家屋が軒を連ね、昭和の面影も漂う。
住吉神社の鳥居に掲げられた陶製の扁額、額字はなんとあの有栖川幟仁親王。皇女和宮の婚約者でありながら、引き裂かれ、後に彼女の婚家徳川家討伐の最高司令官東征大総督として江戸城へ攻め入った。幕末ラブロマンスの立役者だ。
♪宮さん宮さんお馬の前にひらひらするのはなんじゃいなとんやれとんやれな♪ と、東征の官軍兵士たちの間で歌われた宮さんとは、熾仁親王この人のこと。この地への御光来を仰いだのであろうか。
ここはまた、その名を冠した佃煮の発祥の地。
『天安』を贔屓とし、時折、老舗ののれんをくぐっている。
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『てんかたいへい』 「平和」は、明治に入ってもたらされた。「peace」の翻訳語として造語されたのだ。 それまで「和平」という漢語はあったが、「和することによって平らぐ」で、戦争状態だったものが仲直りするという意味だった […]
逆引き武士語『御注進』☜「報・連・相」
『ごちゅうしんにおよぶ』 「ほうれんそう」と聞いて「ポパイ」と答える人は、相当長い間人間をやっきたに違いない。 恋人のオリーブがピンチになると、缶詰を握りつぶしてほうれん草を口にほうりこむ。腕の力こぶがみるみる大きくなっ […]
逆引き武士語『異な事』☜「また妙なことを」
『いなことを』 「いなこと」(異なこと)の「い」(異)とは、普通とは異なっていること。 「妙なこと」「不思議なこと」「おかしなこと」の意味。 「い」(異)ひと言は、現在の「えっ?」のようなものだろう。 言葉として口に出す […]
逆引き武士語『天晴れ』☜「見事だ」
『あっぱれ!』 殿様が扇を開いて「天晴れ!ほめてつかわす」というのは、時代劇コメディの定番。 歴史ものではあまり見られない。 ということで、「天晴れ!」は、肩肘はらずに面白半分で、使える武士語といえそうだ。 ☞「あっぱれ […]
逆引き武士語『曲げて』☜「無理を承知で」
『まげて』 「まげて」とは、道理や意志に反して行動するさま。 「理をまげて」の意。 無理を承知で頼むときに使う。 自分の要望ををなんとか了承してほしいと相手に願う気持ちを表す。 無理でも。是が非でも。なにがなんでも。 「 […]
逆引き武士語『下知する』☜「命令する」
『げちする』 「げち」は、命令、指図すること。 上から下に知らしめるから、漢字表記は「下知」。 「命令する」は「下知する」。 ☞『平家物語』には、戦記シーンで「下知」が頻出する。(げぢと読む) “みな平家の下知とのみ心得 […]
逆引き武士語『面目ない』☜「申し訳ない」
『めんもくしだいもござらぬ』 「めんもくない」というところを 「面目次第もないことでございます」と、幾重にも丁寧を重ねたのが、 「面目次第も御座らぬ」。 「世間に合わせる顏がございません」という意味がまぶされた、お詫びの […]
逆引き武士語『約する』☜「約束する」
『やくする』 義を重んじる武士同士の間で、あえて約束などをしただろうか、とふと考えた。 約束というのは、破られては困ることを破られないようにするために、互いを拘束する決め事。だとすると、 信義にもとることはありえないとす […]
逆引き武士語『不覚をとる』☜「油断した」
『ふかくをとる』 「ゆだん」気を緩めること、注意を怠ることを「油断」と表記する。 いったいどのような事情から「油を断つ」という漢字を宛てるようになったのか? ☞語源も諸説あるようで、ひとつは、大般涅槃経に所収の「王、一臣 […]
逆引き武士語『時分』☜「よいころあい」
『じぶん』 テレビドラマ「相棒」のなかで、杉下右京が「そろそろ参る時分だ」と何気にもらした。 “えっ、じぶん、って、自分のことじゃないよね”、と耳を疑った。 「じぶん」を漢字表記すると、時間の「時」と「分」で「時分」。 […]
逆引き武士語『渡りに船』☜「ラッキーだ」
『わたりにふね』 どうやって向こう岸に渡ろうかと思案していた、ちょうどそのとき、 どうぞお使いくださいとばかりに目の前に舟が寄せてきた。 なんとラッキーなことだ、と。 この挿話が、法華経の「渡りに船を得たるが如く」の一文 […]
逆引き武士語『心得て候』☜「理解する」
『心得て候』 「こころえ」(心得)、今日でも、何かをする際に知っておくべきこと、習ったといえる程度の技芸を身につけていること、の意味で使われる。 「心得る」といって、理解する、了解する。 「心得た」といえば、細かい事情な […]
逆引き武士語『新参者』☜「ルーキー」
『しんざんもの』 「ルーキー」とは、メジャーリーグMLBの新人を指す。 大谷翔平も日本での実績にかかわらず、MLBでは、ルーキー。 新人王おめでとう。 メディアは、大谷を二刀流と称している。 なんと武士語である。 黒船の […]
逆引き武士語『子の刻』☜「零時」
☞『子の刻』 「零時」というのは、1時から1時間を引いた時。 一日が始まる時刻。明治初期の太政官逹では、夜中の12時を「午前零時」、昼の12時を「午前12時」と表記するものとなっている。 江戸時代の時刻の呼称は、二通りあ […]
逆引き武士語『道行き』☜「ロマンス」
☞『道行き』 「みちゆき」(道行き) このことばの第一義は、読み通り、道行くこと、道中。また、道の行き方。 古くは、「道行き」は、出発地から目的地に到着するまでの道程を口頭で語ったもので、言語化された地図だとも、あるいは […]
逆引き武士語『げせぬ』☜「分からない」
☞『げせぬ』 大川端に流れ着いた男女の土左衛門。冥途への道行き離れまいと、 手首と手首を結んだ帯締め紐に、目をおとした、銭形平次。 そこでひと言「こいつぁ、げせねぇ」。 平次親分の頭をかすめた疑いがもつれた糸をするりとほ […]
逆引き武士語まとめ☞あ行〜わ行
<表記凡例>『現代語』☞『武士語』※読み解き>用例/実例◯別義(武士語の他の現代語意味)◆参考 [あ]行 『あいしています』(愛しています)☞『おしたいもうす』(お慕い申す)☞『こう』(恋う☞『こがれる』(焦がれる)☞『 […]