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逆引き武士語『時分』☜「よいころあい」

『じぶん』

テレビドラマ「相棒」のなかで、杉下右京が「そろそろ参る時分だ」と何気にもらした。
“えっ、じぶん、って、自分のことじゃないよね”、と耳を疑った。
「じぶん」を漢字表記すると、時間の「時」と「分」で「時分」
「ちょうどよいころあい」を意味し、「時分をみはからってというように用いる。
「徴服潜行してじぶんを伺ひけれども」(太平記)
右京さんが使っているように、今日でも普通に通用しているのだろうか。
ころ、時刻、適当な時期ということで、さまざまな連用語がある。

「いまじぶん」(今時分)は、今頃、大体今と同じ時期や時刻

「じぶんがら」(時分柄)は、時節柄。
「時分柄
かたじけなく存じ候ふ」

「じぶんどき」(時分どき)は、そのもの事に相応しい時刻。食事時。
この「時分どき」、腹の虫が知らせるメシ時というような単純なことではない。訪問客ともてなす側のあうんのサイン。「時分どきにつき失礼させていただく」といえば、膳の支度は無用となる。訪問した時の心配りがこめられたことばだ。

「じぶんのはな」(時分の花)
「この花は真の花にはあらず。ただ時分なり」
(世阿弥/風姿花伝)
役者の若さによる一時的な魅力でしかないことを、
「時分の花」と称した世阿弥の教え。
「能を極めたることは思ふべからず。ここにて猶つつむべし」と。

☞「孝行したい時分に親はなし さればとて石に布団も着せられず」(誹風柳多留)
ここでの時分は、したいと思うようになった頃、漠然とした時機の意味。

時分の「時」と「分」で「ときわかず」(時分かず)
四季の別がない。時を選ばない、いつでも。の意で使われた。
「湯の原に鳴く蘆鶴(あしたづ)はわがごとく妹(いも)に恋ふれやときわかず鳴く」(万葉集)
“湯の原で鳴く鶴(つる)は私のように妻に恋するのだろうか。時を選ばず鳴いていることだ。”

「時分」にしても「自分」にしても「分」はそれぞれどこからきたのだろう。
字解だと刀でものを分けることを分といい、「わける、わかつ、わかれる、はなれる」の意味になる。
ここから考えると「時分」の「分」は、時間を分つということから、程度、そのくらい、という気分に結びつけたのだろうか。
身のほど、分際など自らの力量を指す語「分」が、古くから私自身を意味する言葉として用いられたという。
より一人称であることを明確にするために「自ら」の「自」を組み合わせて「自分」と表記するようになったのだろうと推測できる。
「分」もまた、程度、くらい、ほど、という意味でも使われるので、「時分」の「分」は、ここから引き出されたと、考えられなくものない。
くどくどと思考をめぐらしたが、畢竟「分からない」。

☞「よいころあい」の意味で「しおどき」(潮時)がある。
海の潮の満ち引きによって、船を出すのにちょうどよい潮の具合になるということで、漁師のことばだった。
それが陸にあがって、「物事を行うのに最も適した時期」「ちょうどよい頃合い」の意で用いられるようになった。
これまた、文化庁の「国語に関する世論調査」では、36,1%もが「ものごとの終わり」という意味で使っているという。
「潮時」は、「好機のこと」。はじめるにも、終るにもよい頃合いのことだ。

[一筆余談啓上]

歌手の中島みゆきを逆引き武士語するとしたら
義経の恋人だった静御前に置き換えるだろう。
そう感じたのは、「糸」という歌詞を知った時分だ。
“縦の糸はあなた 横の糸は私 逢うべき糸に 出逢えることを 人は仕合わせと呼びます”
「幸せ」ではなく「仕合わせ」としている。
めぐり合わせという意味の武士語だ。
「仕合わせ」とは、「しあわす」の名詞形で、
双方の動きがあうこと、重なること。
「しあわせのよきとき」「しあわせ悪しく」というように、
良い、悪いを伴って用いられた。
必ずしも良いばかりではない「仕合わせ」を歌詞に詠み込んだ、その感受性の深遠のほどに震えた。
めぐり逢うことが良いことか悪いことか、わからない。
といっているのですよね。

静御前は、とらえられ、鶴岡八幡宮の舞台で、舞った。
頼朝の前ながら、義経を恋う即興の歌をうたい、舞った。
“しづやしづ賤のおだまき繰り返し昔を今になすよしもがな”

彼女自身の名と、織物の倭と、そして機織女である賤との三つをかさね、音をかさね、「おだまきが繰りかえすように、昔を今に立ちかえらせるということができればいい」という嘆きのことばで留めさす。その巧緻さに舌をまかざるをえない。

中島みゆきと静御前、一千年の時空を糸でつないだ。

 

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