逆引き武士語『ぞんざい千万』☜「いい加減」


『ぞんざいせんばん』

「いい加減」ということばだが、清濁併せ吞む多様さで、いい加減にしてほしい。
アクセントが、前につくか後につくか、で意味が異なる。
前につくのが「いい湯加減」とか「丁度いい加減」とかと、用いられる、「適度・適切・相当・かなり」の意味の「いい加減」。
ここでとりあげる「いい加減」は、かげんの方にアクセントがつく。
「無責任・手抜き・不作法・適当・アバウト・投げやり・でたらめ・あてにしない」の意の、「いい加減」。

☞『ぞんざい』(存在)は、真剣味、丁寧さ、誠意の欠如している態度をいう。真剣でも丁寧でも誠実でもない、即ち、「いい加減・投げやり・不作法・粗雑・粗略」の意に。

☞ “現実にそこにあること”を意味する「そんざい」
「そ」に濁点の付いた「ぞんざい」
漢字にするとどちらも「存在」
これもまた、いい加減なものだが、濁点ありとなしでは、大違い。ハケにけがあり、ハゲにけがない、程に。
そもそも濁点つきの「ぞんざい」で、ひとは生まれる。
生まれっぱなしのあるがままだと、粗雑で、無礼な「ぞんざい」である、けれど、教育や躾、礼儀をまとうことにより、“ぞ”の濁点がとれて、清音の「そんざい」になる。
人格を獲得することで、はじめて、人として、「そんざい」が認められるということで、「そ」に付いた濁点は、粗野、不作法のサインのようなものなのだ。
狼少年が、狼の社会にいた間は「ぞんざい」であり、人間の手で育まれるようになって、人としての「そんざい」になったというようなことだと、考えてみた。
従って、「ぞんざい」な輩は、人としての躾のなされていない、人以下のそんざいとして扱われる羽目にもなろう。
にしても、在(=ある)を存(=考える)という字解から、不作法、粗雑、粗略、適当、という意味を導くには距離がある。そこのとこ哲学してもおもしろい。

☞とはいうもの「そんざい」という語は、明治になって入ってきた、哲学用語の翻訳語なので、武士の時代にはそんざいしてはいない。ぞんざいの「存在」を借字した。

☞武士の時代、「そんざい」という概念がなかったので、強いて表現するとしたら「身」とかだろう。
あるいは、◯◯の男とか◯◯の者とか言っただろう。

☞「ぞんざい」を「存在」と表記するのが一般的になったのは、夏目漱石の影響だともいわれる。
『吾輩は猫である』に、ぞんざいと読む存在が使われている。

☞武士語としては、「ぞんざい千万」が慣用句であっただろう。
「千万」(せんばん)は、その程度がこの上もない、はなはだしいなどの意を添え、付いた語を強調する。
「さてさてぞんざい千万なるやつめかな」(浄瑠璃/出世景清)

☞また、いい加減なさま、物事をおろそかに扱うことを
「ないがしろにする」とか
「粗略に存ずる」と言った。

[一筆余談啓上]

一昨日のことは「おとつい」といい「をとつい」と書く。
「をと」は遠方をさす「をち」(遠)からきている。
「つ」はつなぐ助詞。
「い」は「ひ」(日)。一昨日とは遠い日だとする感覚は、今日をより大切なものとしていたからだろう。

「をとついきやがれ」は、もう二度と来るな、顏も見たくない
と相手を追い返す江戸っ子の啖呵。
「と」が「つ」になり二つ重ねて「をつつい」になると
“いままさに、現在”の意味になる。

「うつつ」は、現実、現世をいい、時間というより意識の状態の表現。因に、昨日・今日・明日、は
「きのふ、けふ、あす」で、
明日を「あした」とは言わない。
「あした」とは「あさ」「夜明け」のこと。昨日は「きぞ」とも言う。

「をとこ」「をんな」「をしえ」「をさない」
なども「お」を「を」と表記する。
香りは「かをり」栞も「しをり」。
昭和も戦前生まれの人は、このように書いた。

をとつい、たまたま見た宝くじのCM現代にまぎれこんだ武士を登場させていた。
浪々の身をかこっているのか、尾羽打ち枯らしたそのヨレヨレ感がなんともよい味を出している。
役所広司の笑顔がなによりもいい。

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