武士語を読み解く☞『しょぞん』


『考えています』
の武士語は
☞『しょぞん』(所存)
で御座る

心に思うところ。意見、思惑を
「しょぞん」(所存)という。
自分が思っていること、考えていることを
相手に伝えるときに使う謙譲語。

謙譲語なので、自分が一歩退くことで相手を引き立てるようなはたらきのある言い方なのに、
〜する所存でござる」と言うと、
さも自信ありげで考えが的をえているようで、信頼もおけそうに感じるからおもしろい。
謙譲語というのは、相手の気分もよくするらしい。

「所存」は、読んで字の通り、
「存ずる所」で、
即ち、思う(存)ところ(所)。

☞「ぞんずる」(存ずる)
は、思う、考える意の謙譲語。
▶︎「いささかいぶかしきところの侍るかと、ひそかにこれをぞんず
(徒然草/第二百十九段)
「存ずる」の名詞形が
「ぞんじ」(存じ)で、
思っていること、承知という意味。
▶︎「各々存じの旨あらば子細を奏聞して」(保元物語)
「御存知怪傑黒頭巾」などという「ごぞんじ」(御存じ)は、
「存じ」を敬った言い方で、知っていらっしゃる、という意味になる。

「所」(ところ)は、ありか、存在する場所、そうすべき部分、機会などの意。
斤で戸を守るの意で、神の居る所が字源、会意文字。

「思う所」で「所存」のように、似たつくりの武士語いろいろ◆

▶︎「為す所」で「所為」(しょい)=行為、しわざ。
▶︎「作る所」で「所作」(しょさ)=身のこなし、振舞、生業。
▶︎「望む所」で「所望」(しょもう)=あるものがほしい、こうしてほしいと望むこと。
※「希望」は、武士語では、「すえののぞみ」(末の望み)
※「所望する」の女子語は「〜たもれ」=〜ください>「肩をもんでたもれ」
※「何をか期すべき/期待する」は、「期(ご)」する

「存ずる」を根にさまざまな武士語が広がる。
「ぞんねん」(存念)=いつも念頭にあって忘れないこと、たえず心におもっていること。執念、恨みなどの意もある。
▶︎「作品の完成よりほかは何の存念も無かった」
(相手の)考え、意向。
▶︎「御存念を伺いたい」

「しょぞんのほか」(所存の外)=考えていることとは違っていること、意外であること、また、残念であること。
▶︎「御見参に入らず所存の外に候」(申楽談義)
▶︎「率爾の見参こそ所存の外なれ。さりながら、喜び入りて存じ候」(曽我物語)

「ぞんじのほか」(存じの外)=思いの外、案外。
「ぞんがい(存外)=予想していた以上に
▶︎「けふのうちによせて攻めんこそ、あのやつは存じの外にしてあわて惑はんずれ」(宇治拾遺物語)
※約束の時間に遅れたときに、
存じの外遅くなりまして申し訳ございません」とか言ってみると、
のっぴきならない訳でもあったのかと思われ、相手を煙にまける?

「ぞんじつき」(存じ付き)=気づいたこと、思いつき。
「存じつく」ともいう。
▶︎「何ぞ珍しい存じ付きもござらうほどに」(虎寛本狂言)

「ぞんぶん」(存分)=思うまま。判断。
▶︎「身どもが存分を申さう」(狂言)

「ぞんじより」(存じ寄り)=思いつき、考え。
また、自分や身近な者の気持ちや意見もいう。
▶︎「当人達の存じ寄りも確と聞き糺してみないと」(夏目漱石/彼岸過迄)
知り合い、知己をへりくだっていう
▶︎「近くに存じ寄りの家がございます」
「不存寄」と漢文表記して、「思いもかけない」の意に。

「ふしょぞん」(不所存)=考えの正しくないこと、思慮の足りないこと、不心得

「しょぞんだて」(所存立)=思慮を固めること、意を決すること

◆相手の考えは「おぼしめし」(思し召し)
相手を敬って、お考え、お気持ちの意。
「思し召す」で、「思う」の尊敬語。
▶︎「陛下はそう思し召されている
▶︎「あはれ不憫と思召」のようにも使う。

◆考え、思案、気持ちという意味で「りょうけん」もよく使う。
漢字を引くと「了見」が優先するけれど、
意味しうるところでは「料簡」の方が、明瞭だ。

「料」を解字すると、斗(と)は、ますがた。
米と斗で、お米が枡のなかにあることを表し、そこから分量を量る意味になった。
「簡」は、竹の札。比べ数える意味がある。

☞司馬遼太郎によると
「料簡」というのは、室町末期には口語になっていたが、もともと仏典の中の漢語で、はかんがえる。は選択する、ということである」
https://sibasan.yuukiwada.com/料簡/

[一筆余談啓上]

覚悟を決めることを「ほぞを固める」といい、「観念の臍を決めた」というように使う。後悔することを「ほぞを噛む」という。「ほぞ」は、へそであり、決心とか本心をも意味する。

今でも、なるほど(成る程)というところを「なるへそ」と、おかしな言い方を楽しんだりする。「なる」は「成る」だとして「へそ」だが、まず「なるほぞ」と言い換えられ、「ほぞ」は「へそ」のことをいっていたことから、体よく「ほど」に「へそ」をあてたように思う。意味的には的をえているのだが、何分ふざけたものいいだったので、江戸っ子も遊んで、面白半分で使っていただろう。

元禄期の『日本妖怪大全』に、「なるへそ」という妖怪が登場する。
妖怪というからには、余程奇怪なことをするのかと思えば、豈はからんや、“お供え物の饅頭を食べ終えた後、自分で茶を沸かして飲んだ”だけ。その様子を、そっくり家人に見られていて、しかも大笑いされた。なるへそが茶を沸かした、ここから、おかしくてたまらないことを「へそで茶を沸かす」というようになったのだという。

簡単にできることを「おちゃのこさいさい」という。いかにも容易そうな語感のいい語句だ。
「ちゃ」のつく言葉も多い。「ちゃら」は、口からでまかせにする。
「ちゃらめかす」は、うまくごまかすこと。
今でも使われるのが「ちゃかす」だ。からかう、ばかにする、はぐらかす。話にまじめに取り合わず、冗談にしてしまう、いかにも江戸っ子らしい物言いだ。大もとは「ちゃり」(茶利)で、おどけた文句や動作の意。また、歌舞伎、浄瑠璃で滑稽な場面を言ったので、でたらめな物言いや振舞に「ちゃ」をつけるのが、江戸期に庶民の間に広まったのだと思う。弁口巧みに言う「べんちゃら」もそうだろう。
でたらめなことを「ちゃらくら」と弥次さん喜多さんも使っている。

所で、物事をなかったことにする、帳消しにすることを「ちゃらにする」というが、このちゃらは「真っ新」のさらの転だと思う。はぐらかす、表面だけとりつくろう意味の「御茶をにごす」と同様、江戸期には、使われていなかったのではないか。

そういえば「お茶する?」といえば、バブル期のナンパの常套句でした。「喫茶店でおしゃべりする」というようなことだけど、現代だとどんな声かけをするのだろう?

余談の余談だが、おしゃべりな女を「お茶っぴー」と呼んだ。遊郭では客がつかず暇な遊女にお茶だしをさせていた(御茶挽き女郎)、そのような遊女はおしゃべりな者が多かったからだそうだ。

 

おすすめ記事

この記事が役にたちそうだったら
重畳、天晴れ!

Twitter で