逆引き武士語『面妖な』☜「奇妙だ」


『さても、めんような』


「めんよう」
は、名高いとか名声という意の「めいよ」(名誉)から生まれた、というと、さても面妖だが、
「めいよ」(名誉)が「めいよう」になり、さらに音変化して
「めんよう」(面妖)となったのだとされる。
名高い、有名だということは、それが世にも稀なことであり、不思議なことだったりもする。
そこから、怪しげで奇怪ということで評判になり、不思議、奇妙という意味の名声、名誉?を得たということか。

☞謎めいた、不思議、得体の知れない、変なもの、ミステリアスな、不可解な事柄のほとんどは、「めんよう」の一語で、カバーされる。
変だな、おかしいな、と思ったら、とりあえず「さても、面妖な」のひと言で、当座を煙にまける。

「さても」は、物事に感じ入ったときに発する語。
この場合、感動詞的に使われて、
「なんとまあ」「それにしてもまあ」の意。
漢字で、「扨も」と表記される。
「ところで」「それにしても」「それはそうと」などと、多く接続詞として用いられる。

☞扨も、古田織部の弟子に「上田宗箇」という武士がいた。
彼が自作した赤楽焼に「さても」という面妖な銘のついた器が、現代に伝えられているという。
あまりの荒々しさに「さても、まあ」と驚嘆したところからつけたのだという。へうげものの弟子らしい、さても面白い逸話だ。

☞「あやしい」(怪しい)という意味で、「けし」(怪し)という古語もあるのだが、
武士語としては「けしからぬ」という言い回しで、「よくない」「不埒だ」「常軌を逸している」という意味で汎用される。
「けし」を打ち消すことによって「けし」どころではない、と強調した語のようだ。

[一筆余談啓上]

「侍」と相似形の「恃」。
「たのむ」と読む。侍とはかくあるべしと、の思いから充てられた漢字なのではないかと思う。
「力として頼る」「信頼する」が、直接の訳だが、「期待する」と共に、それに必ず応えてくれる頼り甲斐のあるという心が脈打っている。

徒然草の兼好さんは、
「のちの矢をたのみて初めの矢になほざりの心あり」(第九十二段)、
「万のことはたのむべからず」(第二百十一段)と、たのむを折々はたらかせている。
「胸中」即ち「心のうちに思っていること」。現代でも散見する。「胸中に成竹あり」と蘇軾の散文にあることからも、武士も使っていたと考えられる。
蘇軾の一文は、竹を描く際に胸中にまず竹の姿を思い浮かべて筆をとる、と綴る。事に当たって、あらかじめ成功するめどのあること。成算が肝要だ。という意味だろう。

「胸奥」という語もある。
「心の奥底」の意で「胸奥に住む」というようないい方をする。

胸の中、心を表すのに「方寸」というのもおもしろい。
「方寸」とは「一寸四方」のことで、諸葛亮の時代の中国では、
心臓の大きさと考えられていた。その昔から心は心臓にあったようだ。腹の中ではない。
 

 

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