逆引き武士語『帰するところ』☜「つまり」


『きするところ』

「つまり」「結局」「要するに」という意味で、武士が言葉にしていたのは、「きするところ」(帰するところ)ではないかと思う。

「落ち着く」「至る」という意味の「帰する」
「こと」とか「場合」の「ところ」で受けた語だ。
帰するところ斯く斯く云云で御座ろう」などと言うと、さも自信ありげで、思わずそうなんだと首肯いてしまう。
話しは飛ぶが、云云(しかじか)だが、同様の言い方で「云々(うんぬん)」がある。
これを国会答弁で「でんでん」と読みまつがえた総理大臣がいた。笑い事ではないが、笑わざるをえなかった。

「ひっきょう」(畢竟)も、武士語っぽい。
骨太で、引き締まった言い方だ。
畢(ひつ)は、柄の付いた網の象形文字で、この網で一網打尽することから、「ことごとく」「終る」という語義になる。
竟(きょう)も、針+首+人で処刑されることを表し、ここから「終る」「ついに」、という語義が派生した。
「畢」も「竟」もどちらも「終る」という意味。
「畢竟」とは、つまり、終るを重ねた最強の“終る”で、究極、最終であり、「つきる」「ついに」「つまるところ」などの意味になる。
「畢竟云云でござる」というような言い方できまる。

☞「天才とは、畢竟創造力の意にほかならぬ」
(石川啄木/初めて見たる小樽)

☞つまり、要するに、結論づけるに、と話を切り出す際には
「畢竟するに」という言い方が慣用される。
畢竟するに無学迷信の罪と言うの外なし」
(福沢諭吉/新女大学)

☞「つまり」「結局」の言い方でおもしろいのが「とどのつまり」
「とど」は、とどめる(止める)に通じ、「最後」とか「限度」という意味をもつ。
「つまり」(詰まり)は、物が詰まること、行きつく最後のところ、事の結末。副詞扱いで「つまり」「要するに」「すなわち」の意に。
そもそも「とど」「つまり」も「結局」という意味な訳で、同義を重ねて強調したら、威勢のいい調子になったので、よく使われるようになったのであろう。
ただ、武士は使わなかっただろう。

☞ハクにはじまってオボコ、スバシリ、イナ、そしてボラ、と呼び名が変化して、最後に「トド」となる。
これ以上大きくならない、終わりだから「とどのつまり」となったのが由来だという説もある。
だが、いかがなものか。
ボラ(鯔)は、成長するごとに名前の変わる縁起のいい出世魚といわれるのに、「とどのつまり」は、「行き詰まった」とか「挙げ句の果て」とか、結果の良くなかった場合に使われることが多い、そこが腑に落ちない。

☞因に「とどのつまり」とどは、申すまでもなく、体長3メートルにもなるというあの大きな海獣「胡獱」とは異なる。

[一筆余談啓上]

“「畢」猶/「華」の面影宿すかな”
畢と華はよく似ていると感じた現代詩人吉野弘の
『畢』(おわり)という題の作品だ。
吉野さんはその随筆の中で、『畢』の試作過程を語っている。
“「畢」を書くきっかけは、
「畢」の中に「華」の幻影を見たことで、「畢」をつげられながら、猶その中に「華」の名残を留めていることが、侘しくもあり典雅にも思われた。
『もう畢(終わ)りですが、少し前までは華だったような気がしています』と書いたが納得できず、手を加えていった。”と。
触発されたのは、芭蕉の
「まゆはきを俤にして紅粉の花」の句
だったという。
畢は、散った花びらだが、思い出という宝を残し、華は、希望だ。
畢のなかに、明日を宿しているという。

ふと、星の終焉を思い出した。
星は爆発して終るが、
そのかけらから次の星が生まれるのだという。

“二人が睦まじくいるためには愚かでいるほうがいい”
の「祝婚歌」はよく知られている。

“母親になる準備を彼女に急がせているのはおなかの中の小さな命令”
の『
白い表紙』が、僕は好きだ。

 

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