逆引き武士語『新参者』☜「ルーキー」


『しんざんもの』

「ルーキー」とは、メジャーリーグMLBの新人を指す。
大谷翔平も日本での実績にかかわらず、MLBでは、ルーキー。
新人王おめでとう。
メディアは、大谷を二刀流と称している。
なんと武士語である。
黒船の国メリケンの衆を両刀遣いで圧倒しつづけていってほしいものだ。
扨も、大谷の活躍を武士ならなんと讃えただろうか?
「天晴れ投打二道の達者かな」だ。

☞武士の世界では、新たに召しかかえられることを
「しんざん」(新参)といった。
大谷翔平は、ロサンゼルス・エンゼルス家に召し抱えられた
新参、ということになる。
新参なれども御咄の衆となされて」(仮名草子/浮世)
「新参」の対義としては「古参」。さしずめMLBならイチローがそうなる。

「しんざんもの」(新参者)とは、新たに仕えた人を指していう。
新たに仲間入りした者、新入りのこともいう。
「新参者」を解析すると「新しく参った者」。
「参る」というのは「来る」の謙譲語であると共に、尊大語でもある。
つまり、他人を指して「新参者」と言った場合、その相手を目下として見てしまうことになる。
新参者本人または紹介者がへりくだって使う以外の用法は、ありえない。

☞東野圭吾に「新参者」シリーズがある。
新垣結衣の出演した映画は観たが、原作は読んでいないので定かではないが、
新たに配属された主人公の刑事の「自分は(この土地では)新参者だから」という自戒をこめた言葉がタイトルになっているのだそうだ。

☞庶民のルーキーは「しんまい」(新米)
まだ不慣れな新人のことをいう。
収穫したばかりの米と新人をかけて「新米」と呼んだと思うがさにあらず。
商家の奉公人は前掛けをしていた。新入りは新しい前掛けをするから「新前掛け」と呼び、それが「新前」(しんまえ)に略され、
訛って「しんまい」と呼ぶようになったのだという。

[一筆余談啓上]

明治維新百五十年。区切りの年にもっともふさわしい人物として、NHKは、大河ドラマに西郷隆盛をもってきた。
ところで、西郷どん、どんな人物なのか、と問い返すと、答えに窮する。
そこで、司馬遼太郎さんの著作をあたってみたのだが、
司馬さんもひと言で尽くせず、さまざまな形容を用いている。

「西郷はうまれつき感情の量が豊富で、それが愛情となってその座をすみずみまで満たす」
「洪量の男とされているが、ところがひとたび公憤を発すると感情の量が大きいだけに身をふるわすようなたとえば山門の仁王像のようなおそるべき憤怒の形相をあらわしてしまう」
「人間離れしたほどの無私さと高士の風のある独得の愛嬌と
長者としての寛仁さとなによりも多量で透明度の高い感情の量」
「西郷のように度量衡の目盛りが他の者と随分違っている男の場合、彼がいうことも行うことも、同時代人にも後世人にもまったく別な目盛りでもって量られる」と語って、「雄大でありすぎた人物として評価するほうが、
誤差がより少なく済む」と突き放す。

事実上封建制度を終焉させ、近代化に舵をきることになった廃藩置県は
西郷どんの勇断をもって断行された。徴兵制度による国民皆兵制の確立、警察制度の改革、宮中の粛正、どれも、西郷どんの睨みがきいたからこそなんなく成し得た。

僕の好きなエピソードがある。
初夏から初秋にかけての暑い間、薩摩絣の単衣を一枚きりですごす。
清潔好きなために三日に一度は下僕に丸洗いをさせ、それが乾くまで裸でいる。急な会議招集の使者あれば「乾き次第すぐ罷りこす」と伝えたと言う。

「人事を尽くして天命を待つ」という俚諺も西郷どんから教えられた。
「偶成」と題した漢詩からは、
「不為児孫買美田」の一句。
子孫に残すのは、物質よりも逞しい精神であると。

話は、翔ぶが如く。
“明治期の小役人を“吏卒(りそつ)”といったが、
なんで終えるという意味の“卒”があてられるのか。
維新政府は、旧武士階級に、士族とは別に、“卒”を身分の呼称として付した。武士を終えた(かっては武士だった)ということのようだ。
警視庁の警官は薩摩藩の卒族がなった。
警官といえば「おい、こら」が代名詞だが、これは薩摩言葉の名残だそうだ。

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