逆引き武士語『忽せにしない』☜「抜かりなく」


『ゆるがせにしない』

「ゆるがせ」(忽せ)は、語感は力強いのだが、その意味となると、ぼんやり、頼りない。
「注意を向けないで、物事をいい加減にしておくさま」
「手を抜いておろそかにするさま」をいう。

☞語源は、「ゆるいかせ」(緩い枷)
束縛の仕方がゆるいからきたように思うが、いかがだろう。
自由勝手にほしいままの「ゆるす(縦す)」を源にするとも。

「ゆるがせにする」(忽せにする)とは、「宜しくやる」「そこそこ適当にやる」の意。
「忽」を字解すると、心の上にゆらゆらして、はっきり見えないさまの象形をのせたもの。
「寛大なさま」「のんびりしたさま」もいう。
「親の子にゆるがせなるは、家を乱すもとひなり」
(井原西鶴/日本永代蔵)

「ゆるがせにしない」(忽せにしない)は、なおざりで適当な「ゆるがせ」を打ち消すや忽ち意味までしたたかになる。
「いい加減にしない」「手抜かりなく」「念には念を入れて」
まさに背筋がのびるようで、
武士たる者かくあるべしだろう。
人や物事に対して真摯に向きあう姿勢がうかがえる。

☞現代でも、大きな契約や約束事をするときに、
「忽せにできない」などというと、真剣さを感じさせ、
安心感と信頼を勝ち取ること必定。

「一刻も」」「一点一画を」「一字一句たりとも」「寸分も」忽せにしない。

☞中世以前は「いるかせ」と、いった。
「この禅門世ざかりのほどは、いささかいるかせにも申す者なし」
(平家物語)
“清盛が全盛のころは少しもいい加減に申し上げる者はいなかった”

[一筆余談啓上]

徳川時代、なにひとつ忽せにしなかった藩主をあげよ、と問われて、頭に浮かんだのが、米沢藩主上杉鷹山と、もう一人会津藩初代藩主保科正之だ。
『会津松平家というのはほんのかりそめな恋から出発している』
司馬遼太郎の『王城の護衛者』の書き出しの一節だ。
お江の尻の下にいるばかりの将軍秀忠、生涯只一度の心移りが、
幕末会津藩の悲劇につながった。

正真正銘徳川秀忠のご落胤である。
信州高遠藩三万石の藩主となり、家光と兄弟の名乗りをあげ、二十六歳で最上山形二十万石を与えられた。
このとき高遠の蕎麦もいっしょに持ち込み、以降蕎麦は、山形の名物になったという。
三十三歳のときに会津二十三万石に転封。
減税の実施/高齢者への扶持米の支給/救急医療制度の創設/災害に備えた社倉の設置と、そのどれもが、領民を慈しみ、安心して暮らせる社会の実現をめざしたものだった。

保科正之の残した家訓が、幕末会津藩の軛となり、足枷となるのだが、
司馬遼太郎をして
『封建時代の日本人がつくりあげた藩というもののなかでの最高傑作』『幕末に会津藩というものがなかったら、日本民族を信用できなかったかもしれない』とまでいわしめる精神風土も育まれた。
『教育水準と人間秩序のみがきあげたその光沢の美しさにいたってはどの藩も及ばず、この藩の文明度は幕末においてもっとも高かったともいえるだろう』

薩長土と会津の戦いは、合理主義と非合理主義の戦いでもあった。
僕は折に付け、奥州列藩同盟が、薩長土をはね返していたら、その後の日本は、どんな未来図を描いたのかと考える。
仮に西洋列強にしぼりつくされ、世界から置いてきぼりにされたとしても、したたかに独自性を強め、グローバリズムとは無縁で、木と紙の家で暮らす、循環型社会に徹した島国。洋上に呑気にぷかぷか浮かぶ楽園に、なっていたとしてもよかったのではないかと。
少なくとも、中国大陸やアジアの国々での暴虐はなかったと思う。
南京大虐殺にしても藩士秩序をもたない薩長軍の狼藉が、日本軍に受け継がれたものだろう。
確かに、先の大戦の精神性は「ならぬものはならぬのです」
会津藩的な非合理主義に下支えされてはいたが。

長州出身の総理のもと幕末長州と会津の因縁は、福島原発災害につながる。首都東京を支え続けてきたのに犠牲だけ一方的におしつけられていく。
非道は、断ち切られていない。

 

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