逆引き武士語『駕籠』☜「乗り物」


『かご』


「のりもの」
は、人を乗せて運ぶものの意で、馬、牛、車などを称し、上代から言葉として、使われている。
「花の春、紅葉の秋、のりものを命(おほ)せて向かひ」
(常陸国風土記)
江戸時代になると、
とくに許された者が使用した上等な引き戸のついた、中から外がチラ見できるようにちゃんと小窓のついている「かご」(駕籠)に限り「のりもの」(乗物)といった。

☞お姫様や奥女中の「駕籠」は、別に「女乗物」と呼称した。
「駕籠」は、権威や身分の象徴のひとつでもあった。
町医者、富裕な町人などの「のりもの」は、奉行のお墨付きを得た特別仕様の「御免駕籠」
いまでいう黒塗りの自家用ハイヤーだ。

☞以前、天正院篤姫の婚礼用の「駕籠」が一般公開されたが、
蒔絵や金工に彩られ、まさに珠玉、動く御殿とも呼ぶべき豪華なものだった。

「玉の輿に乗る」
八百屋の娘として産まれたお玉が、
豪華な輿に乗って大奥にはいり、綱吉の生母になった。
大奥版シンデレラストーリー。
そこから女性が、結婚などによって富貴な身分になることを「玉の輿に乗る」というようになった。
玉は、宝石のこと、美しいものの総称でもあったので、たまたまお玉の名と重なって、イメージもきらびやかになり、この言葉が広まったのだろう。

☞因に、「輿」とは、二本以上の棒(轅・ながえ)の上に、人が乗る台(屋形・やかた)を載せたもの。
腰の辺りにささげ持つ(手輿・たごし)、または、肩にかついで運ぶ(輦・れん)に大別される。
鎌倉時代になると武家においても乗用するようになり、源頼家が五歳の折り、鶴岡八幡の参詣に乗ったのが『吾妻鏡』に記されている。

☞江戸幕府は、御三家をはじめとして特定な家格の者に限って乗輿を認めた。
婚礼のことを「輿入れ」というが、
実際に「輿」に乗っていったというよりは、「輿」=貴人であり、「輿」に乗れるほどの身分だということをひけらかす意味での言い方だったのだろう。

☞武士の「乗り物」といえば、「馬」ということになるだろう。
武士の時代の生活者目線で「乗り物」といえば、「駕籠」となる。
とくに江戸では、町人が馬に乗ることは禁止されていたので、唯一、陸路の交通手段だったのが、「駕籠」だった。
呼びだしてきてもらう「宿駕籠」
タクシーにあたる流しの「辻駕籠」があった。
いずれも、人が座る部分は、竹あるいは木製の簡易な、いわば入れ物。その担ぎ手を駕籠かきといった。
一里を小一時間で走った。

☞一口に駕籠と称しても、筵の垂れをかけた四つ手駕籠、更網代の屋根を掛けただけのものなどスタイルもさまざま。
垂れも囲いもないものは山駕籠だ。

駕籠に乗る人担ぐ人、そのまた草履をつくる人
そもそもは、「身分の上下関係は超えられない」という意味だったようだ。
現在では、職業、境遇さまざまだがそれぞれ役目を果たす事で世の中はうまく成り立っていく、というような意味で用いられる。

[一筆余談啓上]

江戸時代、「車」もあることはあった。牛車(うしぐるま)に大八車。これらは、荷物の運搬用だったが、人をのせる車もあった。「肩車」だ。
箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川。橋も渡し船もなかったので、蓮台に乗るか、川越人足に肩車されてしか渡れなかった。
大井川に橋がかけられなかったのは、江戸の防衛上の理由からというのは、建前だったようだ。
初期はそれもあったようだが、川越人足の制度が整備されるにつれてその権益の保護が優先された。
同様の理由で、渡し船も認められなかった。

江戸時代は、不便こそが雇用を生み、産業となった。
交通手段に馬車がなかった理由のひとつもこれだった。
寛政改革時、辻馬車の提案がなされたが、老中松平定信は、却下した。
ここでも軍事利用を懸念したともいうが、やはり馬方、船方の権益を保護したのだ。
馬車の場合、交通事故の増えることも嫌ったらしい。

幕府は、社会構造の変化をのぞまなかった。合理性のみを追求しなかったことで、安寧を維持できた。
馬車が採用されていたら、時代劇の道中シーンにかかせない悪党の駕籠かき雲助も、廃業に追い込まれただろう。
因に、網を張ってえものを待つのがクモに似ているので、雲助と呼ばれたという。

 

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