逆引き武士語『たわけ』☜「馬鹿者」


『たわけ』


「ばかもの」
ということば自体、南北朝時代の文献にみられるという。
「ばかのもの」といい、
「狼藉をはたらく者」の意味で用いられている。
いつごろから、「乱暴者」から、現代使われているような「愚かしい」という意味になったのかは、よくわからない。

☞老舗の「ばか」となると、「をこ」(痴)だ。
「馬鹿にすること」「馬鹿らしいと思うこと」を「をこがる」(痴がる)という。
「この聞く男ども、をこがりあざけりて」(宇治拾遺集)
愚かで馬鹿げたはなしを「をこの沙汰」という。
「馬鹿者」を「をこなる者」と表記しただろう。

「をこなる者」が多分に雅語的表現だとして、口からも発せられただろうと思われるのが「しれもの」(痴れ者)だ。
「をこ」の漢字表記「痴」を引き継いでいることからも筋目のいい「馬鹿者」だ。
「まことかとて、しれものは走りかかりければ」(枕草子)
紫式部は「ばかげている」ことを「痴れがまし」と書いている。
「世の中の痴れがましき名を」(源氏物語・夕霧)
“世の中のばかげた評判”
武士も「痴れ者!」と声を強めて言っただろう。

☞「馬鹿者」の意味で、時代劇でもよく聞かれるのが、「たわけ」(戯け)だ。「戯」をあてた漢字表記には「ふざけるな」とも読める。そういう気分もはいったことばといえよう。
「たわけものめが」というような口ぶりのときは、その気分まで噴き出した言い草だ。
そもそも「たはけ」(戯け)とは、「愚かな行動」「ふざけた言動」を指す。
「たわけもほどほどにせい」
「たわけたことをぬかすな」
と言うように、嗜めるようなニュアンスが慣用される。

「ばかなことをする」は、「たわける」(戯ける)。
「ばかばかしい話」は、「たわごと」(戯言)。
「戯」を解字すると、戦勝を祈る舞楽を表したもの。
その仕草が、たわむれ、からかっているようにも見えたので、
この類の行為を表す語にあてられたのだろう。

「たわけ」の語源は、田を分ける「田分け」に由来するという。
子供の人数で田畑を分けつづけると、
耕地は狭くなり、ついには家系が衰退する。そのような愚かなことをする者を「たわけもの」とよぶようになったという。
が、言葉遊びに近い気もする。
「ばかもの」の語源にも似たような説がある。
禅宗で破産を意味する「破家」と「者」をくっつけて
、破産するほど愚かな者ということから「はかもの」、転じて「ばかもの」になったという。
どちらも、たわけたことのように思うのだが。

「うつけ」(空け)も「馬鹿者」の意味で用いられる。
信長がそう呼ばれたことで、よく知られている。
愚かというより、漢字からして空虚な者ということで、からっぽ、ぼーっとしている、というイメージが強い。
オーダーしたのとは違う料理を運んできた店員に、
「このうつけもの」と一喝したら、「香のつけもの」が出てきたという、たわけた話もある。

[一筆余談啓上]

馬鹿者属とは、異なる「怠け者」属を「のら」という。
この「のら」をさらに強調したのが「どら」だ。「のら猫」を「どら猫」というが如し。
ドラえもんは、藤子不二雄が、起き上がり小法師を見ておもいついたそうだ。丁度その時どら猫がいて、それで名前を『ドラえもん』としたのだという。
「どら」のタイトルが目を引いた映画といえば、市川崑監督の「どら平太」だ。
道楽ものにして、振る舞いの不埒さから「どら平太」と渾名された望月小平太。役所広司が演じた。
まだ、本人より芸名の由来の方が取り沙汰されることの多かった、売り出して間もない頃、六本木交差点脇の喫茶店で隣り合わせたことがあった。その後、彼が演じる時代劇をこれほど数多く楽しませてもらうことになろうとは、慮外のことと、彼の作品にふれるたび記憶が反芻される。
たまさかにしてわくらばに、縁ともいえない邂逅を愉しんでいる。

山本周五郎の「町奉行日記」を元に市川崑、黒澤明、木下恵介、小林正樹の「四騎の会」がシナリオを共同執筆したが、三十年の間お蔵入りになっていた。
三人が逝き、一人残った市川崑が世に出した。
どらどころかスーパーマンだったという痛快娯楽時代劇の定石通りの展開で楽しめた。
「新任奉行殿 本日もご出仕なし」と書きつけて、日誌を閉じるところで終わる。
「本日もご出仕なし」が気に入って「本日もご出仕なり」と出勤するごとに口ずさんではぐうたらべえになりきれない自らのけなげさを揶揄していた。

 

 

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