逆引き武士語『小町』☜「美人」


『こまち』

美人をいうのにも等級があるのだそうだ。

横綱が「佳人」で、大関が「麗人」そして関脇が「別嬪」だという。
「別嬪」は、単に美しいのではなく非常に美しい女性で、これに育ちの良さが加わると「麗人」、知性まで備わったのが「佳人」となる。
とまことしやかな解説もあったりして、面白くもある。

「かじん」(佳人)は、美人の漢語的表現。
もともと漢語で「人」は、男性を指すことばだったので、女性の表現に使われなかった。
口語としては、「外見」「顔立ち」「器量」の意の「みめ」(眉目・見目)「よい」(佳い)で、「みめよし」(眉目佳し/見目佳し)と言っただろう。
「佳人薄命」(かじんはくめい)とは、美人は数奇な運命にあって、とかく短命であること。
今日でいう「美人薄命」のこと。

「れいじん」(麗人)も、美人の漢語的表現。
「みめうるわし」(見目麗し)と言っただろう。
ただ見た目が整っているだけでなく、周りが感銘を受けるほど、精神的に豊かで気高い美しさのこと。
「容姿端麗」は、姿かたちが整って麗しいこと。どこからみても美しく垢抜けていることをという。
「端」は形がきちんと整っているさま。

 ☞べっぴん」(別嬪)は、江戸期に入るくらいから、美人を意味することばとして用いられたようだ。
そもそもは、別格な品物、特別によい品という意味で表記も別品だった。そこから、優れた人という意味合いになり、女性に対して特別に美しい人のことを言うようになった。
高貴な女官の「嬪」をあて「別嬪」
と表記されるようになった。

☞美人を美貌の天才歌人小野小町にあやかって、「小町」と呼ぶようになったのはいつ頃からだろう。
百人一首では十二単の裳裾を広げた後ろ姿のみが描かれている。それは絵にも描けないほどの美しさだからだといわれてきた。
評判の美しい娘を小町娘」(こまちむすめ)といい、多く、その女性の住んでいる土地の名をつけてよんだ。
地方都市のどこにも銀座があるように、地産の美人は「小町」と呼ばれ、評判されたのだろう。

☞一般によく使われていたと思われる美人の表現は、
「きりょうよし」(器量よし)ではなかろうか。
「器量」とは、「才能」「能力」「人徳」「ものの上手」などの意味で、特に女性について「顔立ち」「容貌」をいう。
武士の時代も、美しいことは、女性にとって才能のひとつと考えられていたようだ。
「器量がよい」、で顔立ちが美しい、美人。

☞漢書では美人を「一顧傾人城 再顧傾人国」と表現した。
ここから、君主が心を奪われ、政をおろそかにして城を滅ぼすほどの美女を「傾城」(けいせい)と称した。
美人の称号の最高位だが、天下太平の江戸期には、遊女のことを「傾城」といった。

☞美人を表現する言葉は、実に多い。四字熟語でたたえているものだけでも「明眸皓歯」「花顔玉容」「仙姿玉質」などなど、武士は、文字に記すときには、それらの漢語表現を用いたと思われるが、武士語にはどれもなじまない。
個人的に好きな美人の四字熟語は「一笑千金」
その微笑みは千金に値するほどの美人、ということだ。

[一筆余談啓上]

世界の三大美人といえば、傾国の楊貴妃、クレオパトラ、そして小野小町。
『男はつらいよ』の寅さんの啖呵売では、続いた数字が三つ。
かの有名な小野小町が、
京都の極楽寺の門前で、三日三晩飲まず食わず、野たれ死んだのが 三十三」と、
ずいぶんな出鱈目飛ばしている。

門前で息絶えたのは、小町に恋いこがれた深草少将だ。
少将に、小町は、言うにことかいて
「百日百夜、通ってくださるなら、契りを結びましょう」と。
けなげに深草の少将、墨染から山科の小町のもとへ、一里余を雨の日風の日毎夜、通い続けた。
であるのに、九十九日目の夜、大雪のため凍死してしまう。
というのが、通う深草百夜の情け「百夜通い」の伝説。
通った証しに、少将が届けたのが、芍薬の種。それを小町は、毎日庭に植えた。
少将が亡くなった後に、満開に咲き誇った花を見て、小町は何を想っただろう。
「花の色は うつりにけりな いたずらに 我が身世にふる ながめせしまに」
芍薬でなく榧(かや)の実だともいわれる。
「檜千年、槇万年、榧限りなし」といわれるほどだから、永遠の象徴だったのかも。
小町は、このナッツのような実を、一粒づつ並べて百になるのを待ったともいう。
少将は、九十九個目の実を握りしめて息絶えた。

ところで、寅さんの小野小町だが、
四十二作「ぼくの伯父さん」に出てくる。
泉の寄宿する家をいきなり訪ねていってよいものか、
逡巡する甥の満男に、寅さん、深草の少将の話を聞かせる。
百夜通い続け、恋の歌を書いて郵便受けにポトリ。
それで小町の心をつかんだのだと‥…

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